父親になってから早い事で3年半の歳月が流れました。
こんな事を言うと、女性からはおかしいと思われるかもしれませんが、第一子が生まれて3ヶ月頃までは、自分の子供である事は分かっているものの、親としての愛情を抱けずにいました。
もちろん、表情が作れる様になってからは、可愛いとかそういう感情は当然生まれます。
でも、それと、愛情とは別物と言うか、そういった感情を持てなかった事に悩んだ時期もあります。
友達(先輩パパ)や親に相談してみると「男親の場合は、そんなもんだよ」と言われ、ほっとしたのと同時に、更に不安になりました。
2人は子供を愛している訳です。「そんなもんだよ」と言うのは子供に愛情をいだけているから言えるセリフ。自分はこのまま愛情を抱けないのか。いつになったら変化が起きるのか。
ちょっとブルーな期間を過ごした僕ですが、何も心配する事なく、気がつけば普通の親同様、子供が可愛くて仕方なく、絶対に幸せになって欲しいと思う様になっていました。
それは、生まれてから5ヶ月が経った頃からだったと思います。
超未熟な親として、人様にアドバイスなどする理論など、当然持ちあわせていない僕ではありますが、一応子育てで大切にしている事があります。それは、
子供を子供として接するのでは無く、人格を持った一人の“人”として接する事です。
子育てをしていると(大半は妻ですが^^;)、小さい壁に多くぶち当たります。その度にそうなった原因とかを自分なりに考えたり、子育ての本を読んだりするのですが、どうも最近の「褒めて伸ばす」や「叱らない子育て」理論には納得出来る部分がありません。今回は、そんな子育てに対する考え方を書いた内容なので、パパママさん以外はスルーして下さい^^
理論と現代のギャップ
「褒めて伸ばす。叱らない教育法」に共感出来ない大きな要因は、現代社会を見ていいて考えさせられる部分が多いからではないかと、自分では考えています。
ただそれは「最近の子供は・・・」みたいな、年上から見た現代の子供に対する一般的な見方では無く、育て方が原因で起こっている下記のような社会現象です。
- “うつ病”に悩む人が年々増加傾向にある(昔はそんなにいなかった)
- 家族とお出かけをしているのに、ゲームをして自分の世界に入っている子供
- キレる大人
- 会話の時、人の目を見ないで話す人
40代以上の方と比べると、現代の若い人達はコミュニケーション不足と言われていますが、僕も含め若い方は、「褒めて伸ばす」などの子育て理論が生まれた時代を生きています。
何となく、その結果が現代の社会を作っているのでは無いかと思ってしまうのです。
コミュニケーション
そもそも、子育ての理論って何?です。
家庭は会社では無いわけで、効率的、効果的に目的を達成する為の、理論的ロジックに当てはめて考えるのは、無理があります。
企業は、徹底的に無駄を省き、最短のルートで目的(利益)を追求しようと、日々営業活動を行っています。しかし、家庭では、無駄は無くてはならないものです。なぜなら、無駄はコミュニケーションそのものだと思うからです。
昔は、足で営業をする事が当たり前でした。顔を合わせて名前を覚えてもらう様に何度も足を運ぶ。効率的という理由から、今は、メールや電話で済ます事の方が多くなっています。でもその無駄を省く事はコミュニケーションという重要な価値も省く事にもなります。
関連:子供の教育に親はどれだけ関係しているのだろうか
真実を伝える事
僕は、『子供に嘘を付かない』様にしています。
大人の事情で話したく無い事や聞かせたく無いことも当然ありますが、大抵の事は事実をそのまま伝える様にしています。
先日、親戚(子供の曽祖父母)が無くなり、葬儀に子供を連れて行きました。子供にとって人が死ぬという事を初めて身近に感じた日です。
棺桶に入った曽祖父母を見て、
「何で寝てるの?」「なんで起きないの?」
と、僕に質問をしてきます。“死”そのものを理解できていない様子でした。
火葬の時、義母は
「まだ早いと思うから骨は見せない方がいいよ」と言いましたが、僕は子供に、
「怖いかもしれないから見ないで待っててもいいけどどうする?」
と聞くと
「見る」と言うので、僕は曽祖父母が火葬炉に入る所、火葬後の骨上げの全てを子供に見せました。
この日まで、『大切な人はずっと側にいる』と思っていた子供も、“死”というものがあり、人が死んでしまうと話す事も出来なくなる事を理解してくれたと思います。
子供に嘘を付かない様にしようと思ったのは、僕の父親からの影響だと思います。
当時小学1年生だった僕の母親はガンを患いました。その時、父親は「お前の大事なお母さんの事だから本当の事を言う。手術をしても100%治るかは分からないと医者から言われた。」
正直、それまで生きてきた中で一番ショックを受けました。
「お母さんが死んじゃう!」
考えただけで、涙が溢れてきました。前を見ると父親も涙を流していました。
幸い、今も母は元気ですが、その事実を告げられてからは、今までやった事の無かった、お手伝いを自分からする様になり、母親の大切さ、命の尊さを感じました。
真実は辛い事も多いですが、子供用の真実を用意する事は、子供と真面目に向き合っていないと思いますし、それを子供は感じるのでは無いかと思います。
僕は、父親が自分と正面から向き合ってくれていると、感じる事が出来ました。
それは愛情とも言い換える事が出来ると、今では思っています。
叱る事
僕は、子供が悪い事をしたら、叱ります。泣いても、暴れても、子供が悪い事と認識するまで妥協しません。
逆に、お手伝いをしてくれたり、今まで出来ない事が出来る様になった時は褒めますし、休日は必ず子供が行きたい場所に行って一緒に遊びます。
叱ると言うのは、大抵の場合、親がして欲しくない事。だったりすると思います。
例えば、遊んだものを片付けない、言うことを聞かない、寝ない。などなど。これらを叱るのは、親の都合ですが、それをしかるのは、当然だと僕は思っています。
だって、個では無く、家族という『集団』で生活をしている訳ですから、一人がわがままを言っていては誰かが我慢をする事になります。
家庭で出来ない事が社会に出てから出来ると考えるのは少し無理があります。
「姉と妹」「父と母」の家族であってもお互いが気を使い合い、向き合う事が大切です。
社会に出て、自分の都合の良いように進む事なんてあまり無い訳です。人付き合いで悩む事も少なくありません。
そんな時「どうすれば良いか」を判断し、良い方向に向かう為の決断をする為には、小さい時からそういった環境にで生活している事が大切だと思うのです。
そういった理由から、『褒めて伸ばす』も『叱らない』も現実社会とのギャップがありすぎて共感が持てません。
結局の所、成人したら、自分に対して他人がどう接するかは全て他人が決めている訳です。
親が子供に合わせる事で、子供はそれを当たり前だと感じ、社会に出た時そのギャップに苦しむと思います。
実際、うちの会社にも「言わないと動かない後輩」や「叱るとヘコむ社員」は、ここ10年で相当増えたと感じています。
子供に考えさせる事は責任を持たせる事
『まだ子供だから・・・』『理解が出来ないから・・・』させない。
というのは親の考えです。絶対に危ない事と少し頑張れば出来る事を判断し、危ない事から守るのが親の務めだとも思いますが、大抵の場合その前に親が判断をして、止めてしまう事が多いのでは無いでしょうか。
子供に判断をさせる事は、同時に責任を持たせる事でもあります。
そして、間違った判断をし、失敗したら、次からは失敗しないように考え実行出来るようになります。
可愛い我が子ですから、普通の親なら、傷ついたり、怪我をさせたいとは思うわけがありません。
ただ、出来ない事をしようとする時、子供は成長します。出来た時に成長するのでは無いんです。
映画ファインディング・ニモ [DVD]の中で過保護なマーリン(ニモのお父さん)に、旅仲間のドリーが
「子供に何もおきないようにしたら子供は何も出来ないわ」
と言うのですが、親としてハッとする一言だと思いませんか?
最後に
『子供と親』というくくりで考えずに、『人と人』って考えて接すれば、子育ても力を抜いていけるような気がします。
友達から、嫌な事をされたら怒るのと同じで、子供にしてほしく無い事をされたら怒るのは普通のコミュニケーションだと思います。
親が一生懸命働いたお金で旅行してるのに、歩きながらゲームをしてる子供。変です。自分にこんな友達がいるのは嫌ですよね。
『親も子供に成長させてもらっている』と考えれば、尊重しあうような関係を、小さい子供との間でも築けると思います。
子供に正直に接していれば、曲がった子にはならないと思う、yoshiakiでした。